1892(明治25)年 |
3 |
1 |
0歳 |
東京市京橋区入船町(現・束京都中央区明石町)に、新原敏三(牛乳搾取販売業耕牧舎を経営)、フクの長男「新原龍之介」として出生。ハツ(前年に6歳で夭逝)とヒサの二姉があった。 |
10 |
|
同月末にフクが突然発狂したために、フクの実家である芥川家(本所区小泉町15番地→現・墨田区両国3丁目22番2号)に預けられる。芥川道章(フクの兄。当時東京府土木課長)・儔(幕末の大通人・細木香以の姪)夫妻、伯母フキによって養育されることとなる。 |
1897(明治30)年 |
4 |
|
5歳 |
江東尋常小学校付属幼稚園に通う。将来の夢は海軍将校。 |
1898(明治31)年 |
4 |
|
6歳 |
江東尋常小学校に入学。将来の夢は洋画家。 |
1899(明治32)年 |
7 |
|
7歳 |
実母の妹・フユと実父の間に異母弟・得二誕生。 |
1901(明治34)年 |
4 |
|
9歳 |
この頃、大いに本を読む。〈落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな〉という俳句を初めて作る。 |
1902(明治35)年 |
4 |
|
10歳 |
高等科に進級。同級生と回覧雑誌『日の出界』(3月創刊)を作り編集などをする。 |
11 |
28 |
実母・フクが死去(享年42歳)。 |
1903(明治36)年 |
夏 |
|
11歳 |
芥川・新原家の人々と一緒に千葉県勝浦を旅行。この年から大正初年まで、ほぼ毎年勝浦に出かける。 |
1904(明治37)年 |
8 |
28 |
12歳 |
叔父の芥川道章と正式に養子縁組を結び、「芥川龍之介」となる。 |
1905(明治38)年 |
3 |
|
13歳 |
江束尋常小学校高等科3年修了。 |
4 |
|
東京府立第三中学校(現・両国高校)に入学。 |
1906(明治39)年 |
4 |
30 |
14歳 |
同級生の野口真造、大島敏夫らと回覧雑誌『流星』(のち『曙光』)を始め、編集発行人となる。 |
1907(明治40)年 |
|
|
15歳 |
この年、三中の親友・山本喜誉司の家で、山本の姪で7歳の塚本文(のち結婚)を識る。 |
1908(明治41)年 |
7 |
24 |
16歳 |
級友・西川英次郎とともに、丹波山・甲府、上諏訪・下諏訪、小諸、軽井沢方面を旅行(~8月1日帰宅)。 |
1909(明治42)年 |
1 |
1 |
奈良・京都方面の旅行に出かける(~8日頃帰宅)。 |
3 |
26 |
17歳 |
山本喜誉司と千葉県銚子に出かける(月末頃まで滞在)。 |
4 |
|
初旬、静岡を旅行。久能山、竜華寺を訪れる。 |
7 |
19 |
柔道納会に参加、中堅として一人破る。 |
末 |
月末から翌月にかけて、京都方面を旅行。 |
8 |
8 |
級友の市村友三郎、中原安太郎らとともに槍ケ岳登山に出かける(10日、槍ケ岳登撃か)。 |
10 |
26 |
修学旅行で日光方面に出かける。のち、その体験をもとに「日光小品」「父」を執筆。 |
1910(明治43)年 |
2 |
10 |
『校友会雑誌』第15号に「義仲論」を発表(同号の編集委員も務める)。当時は歴史家を志望していた。 |
3 |
|
18歳 |
府立三中を2番の成績で卒業。 |
8 |
10 |
鵠沼に滞在中の山本喜誉司を訪ねた後、二人で静岡方面の旅行に出かける(~14日帰宅)。 |
9 |
|
第一高等学校第一部乙類(文科)に無試験で入学。菊池寛、久米正雄、成瀬正一、松岡譲、山本有三、土屋文明らと同級となる。 |
10 |
|
芥川家は東京府下内藤新宿(現・新宿区新宿2丁目)の新原敏三所有の家(耕牧舎牧場脇)に転居。 |
1911(明治44)年 |
9 |
|
19歳 |
寄宿舎に入る。同室者は井川恭を含め12人。寮生活に馴染めず、週末には自宅に帰っていた。 |
4 |
6 |
西川英次郎とともに赤城山に登り、この日山頂に達する。 |
7 |
15 |
西川英次郎らと御岳山登山(~18日帰宅)。 |
10 |
10 |
西川英次郎と塩原温泉へ旅行(~15日帰宅)。 |
1912(明治45・大正元)年 |
1 |
|
「大川の水」執筆(発表は1914=大正3年)。 |
4 |
1 |
20歳 |
西川英次郎と富士五胡巡り(4月3日付で級友・井川恭に葉書、後輩・小野八重三郎に絵葉書を、大宮局から送っている)。 |
8 |
16 |
友人(中塚癸巳男か)と二人で、信州・木曾・名古屋方面を旅行(~20日帰宅)。 |
|
|
この頃、家族や知人、書籍から「Mysteriousな話し」を収集し、『椒図志異』と題したノートに纏める。 |
11 |
11 |
横浜ゲーテ座で外国人一座の「サロメ」を観る。この頃、観劇、絵画展、演奏会にしばしば出かけている。 |
1913(大正2)年 |
6 |
22 |
21歳 |
級友の井川恭、長崎太郎、藤岡蔵六と赤城山、榛名山、伊香保方面を旅行(~28日帰宅) |
7 |
1 |
第一高等学校を2番で卒業。 |
9 |
|
東京帝国大学英吉利文学科に入学。 |
1914(大正3)年 |
2 |
12 |
久米正雄、松岡譲、成瀬正一.山本有三、土屋文明、豊島与志雄、山宮允、菊池寛らと第3次『新思潮』創刊。 |
3 |
1 |
22歳 |
山宮允と共に第1回「愛蘭土文学会」に参加。早稲田大学の学生だった西條八十、日夏耿之介らを識る。 (従来は、日夏の証言に基づき1912年頃の出来事とされていたが、1914年が正しい。) |
4 |
三崎、城ケ島、逗子方面を旅行(~6日帰宅)。4月上旬にも三浦半島を旅行している。 |
5 |
1 |
処女小説「老年」(『新思潮』)を発表(柳川隆之助名義)。 |
15 |
吉田弥生への恋心が芽生え始め、井川恭宛書簡に「僕の心には時々恋が生まれる」と書き送る。 |
7 |
20 |
千葉県一ノ宮に約1か月間滞在(~8月23日帰宅)。この間、吉田弥生と文通。 |
10 |
末 |
芥川家は新宿から東京府下滝野川町字田端435(現・北区田端)の新居に転居。 |
11 |
|
中旬、逗子に滞在(~13日帰宅)。逗子には成瀬正一の別荘があり、その後も何度か訪れている。 |
1915(大正4)年 |
1 |
|
この頃、吉田弥生との結婚を決意するが、一家の反対に遭い破局を迎えた。 |
8 |
3 |
23歳 |
破恋の傷を癒す目的もあり、一高時代からの親友・恒藤(井川)恭の郷里である松江に遊ぶ(~22日帰宅)。 この間に「松江印象記」を地元の新聞『松陽新報』に発表、 初めて芥川龍之介の筆名を使う。 |
9 |
1 |
第3次『新思潮』廃刊。 |
11 |
1 |
〈王朝物〉第1作「羅生門」(『帝国文学』)を発表(柳川隆之助名義)。 |
18 |
級友・岡田(後、林原)耕三の紹介で夏目漱石の木曜会に初めて出席し、以後師事。 |
1916(大正5)年 |
2 |
15 |
久米正雄、菊池寛、成瀬正一、松岡譲と第4次『新思潮』創刊、「鼻」を発表。夏目漱石から賞讃を得る。 |
7 |
|
24歳 |
東京帝国大学英吉利文学科を2番の成績で卒業。卒業論文は『Young Morris』。 |
8 |
17 |
千葉県一ノ宮に久米と遊ぶ(~9月2日)。この間に夏目漱石から情愛の籠った手紙を貰う。 |
25 |
一ノ宮から塚本文に求婚の手紙を書く。 |
9 |
1 |
文壇登場第1作「芋粥」(『新小説』)を発表。 |
10 |
1 |
「手巾」(『中央公論』)を発表し、新進作家の地位を確立。 |
11 |
|
横須賀の海軍機関学校の英語の嘱託教官となることが決まり、同月末から鎌倉町和田塚(由比ガ浜)に下宿。 |
12 |
1 |
横須賀の海軍機関学校に就任。 |
9 |
夏目漱石が死去(享年49歳)。 |
|
同月、塚本文と婚約成立。 |
1917(大正6)年 |
1 |
1 |
「尾形了斎覚え書」(『新潮』)、「運」(『文章世界』)を発表し、新年号作家の仲間入りを果たす。 |
3 |
15 |
25歳 |
第4次『新思潮』が「漱石先生追悼号」をもって廃刊。 |
4 |
12 |
養父・道章を伴って京都・奈良旅行(~17日)。恒藤(井川)恭に京都を案内される。 |
4 |
22 |
佐藤春夫と初めて会う。 |
5 |
23 |
第1短篇集『羅生門』を阿蘭陀書房より刊行。 |
6 |
20 |
軍艦「金剛」の航海見学で横須賀-山口県由宇間を航海。帰途、岩国、京都に立ち寄る(~24日帰宅)。 |
6 |
27 |
夜、日本橋のレストラン鴻の巣で『羅生門』出版記念会が開かれる。 発起人は、小宮豊隆、谷崎潤一郎、池崎忠孝、『星座』同人(佐藤春夫など)。 岩野泡鳴、日夏耿之介、中村武羅夫、田村俊子、滝田樗陰、有島生馬、豊島与志雄、加納作次郎、和辻哲郎ら計23人が出席した。 |
9 |
12 |
鎌倉から横須賀市汐入の下宿に転居。 |
10 |
20 |
初の新聞小説「戯作三昧」(『大阪毎日新聞』)を発表(~11月4日)。 |
11 |
10 |
第2短篇集『煙草と悪魔』(〈新進作家叢書第八編〉)を新潮社より刊行。 |
1918(大正7)年 |
2 |
2 |
塚本文(当時17歳、跡見女学校在学中)と結婚。田端の白梅園で内祝言をあげ、披露宴は自宅近くの自笑軒で行われる。 |
|
この頃、薄田泣菫の斡旋で大阪毎日新聞社の社友となる。 |
3 |
3 |
26歳 |
鈴木三重吉の紹介で小島政二郎が来訪し、以後親交を結ぶ。 |
3 |
29 |
横須賀から鎌倉町大町字辻(材木座)に転居、文との新婚生活を送る。 |
5 |
1 |
社友第1作「地獄変」を『大阪毎日新聞』に掲載(~5月22日)。 |
30 |
江田島の海軍兵学校参観のため広島県に出張。帰路に奈良、京都、大阪などを周る(6月上旬帰宅)。 |
7 |
1 |
初めての童話「蜘蛛の糸」(『赤い鳥』)を発表。鈴木三重吉の勧めによる。 |
8 |
作品集『鼻(新興文芸叢書8)』を春陽堂から刊行。「羅生門」の結末が現行の形に改訂される。 |
9 |
1 |
「奉教人の死」(『三田文学』)を発表。 |
この頃、慶応大学教授への転職の話がもちあがる(翌年まで長引くが、結局は成立せず)。 |
10 |
1 |
「枯野抄」(『新小説』)を発表。 |
1919(大正8)年 |
1 |
15 |
第3短篇集『傀儡師』を新潮社より刊行。 |
3 |
8 |
27歳 |
大阪毎日新聞社の客員社員の辞令を受け取る(出勤の義務なく、年数本の作品を紙上に発表するのが条件)。 |
16 |
実父・新原敏三死去(享年68歳)。 |
31 |
海軍機関学校を退職。「永久に不愉快な二重生活」に終止符を打つ。 |
4 |
28 |
鎌倉を引き上げ田端に戻る。日曜日を面会日に定め、書斎には「我鬼窟」の扁額を掲げる。 |
5 |
4 |
菊池寛と長崎旅行。永見徳太郎の世話になる。当時、長崎県立病院に勤務していた斎藤茂吉とも会う。 帰途、大阪・京都方面を旅行(~18日帰宅)。 |
6 |
6 |
入社第1作「路上」を『大阪毎日新聞』に連載を始めるが、8月8日に中絶。 |
10 |
岩野泡鳴主催の歌会「十日会」に初参加、のち彼に大きな翳りをもたらすことになる秀しげ子を識る。 |
11 |
23 |
画家・小穴隆一を識り、生涯の友となる。 |
1920(大正9)年 |
1 |
28 |
第4短篇集『影燈籠』を春陽堂より刊行。「舞踏会」(『新潮』)を発表。 |
3 |
|
「秋」執筆の参考人として、文から幼馴染みの平松麻素子を紹介される。 |
4 |
1 |
28歳 |
現代小説「秋」(『中央公論』)を発表。 |
10 |
長男・比呂志誕生(戸籍上は3月13日誕生)。菊池寛の名前を取って命名。 |
春 |
|
上野の清凌亭で座敷女中をしていた佐多稲子(当時15歳)を識り、清凌亭に通う。 |
7 |
1 |
「南京の基督」(『中央公論』)、「杜子春」(『赤い鳥』)を発表。 |
11 |
16 |
久米正雄、菊池寛、直木三十五、佐佐木茂索、宇野浩二らとともに、主潮社(日本画家の団体)主催の公開講座講演旅行で京都・大阪へ。帰途、宇野に誘われて木曾・諏訪方面に遊ぶ(~28日帰宅)。 |
1921(大正10)年 |
1 |
30 |
小穴隆一、小沢碧童(俳人)、遠藤古原草(俳人・蒔絵師)とともに千葉県布佐へ1泊旅行に出かける。 |
2 |
20 |
大阪毎日新聞社の要請で大阪へ行き、中国特派旅行を受諾。同地で宇野浩二、里見弴、直木三十五らと遊ぶ(24日帰宅) |
3 |
14 |
29歳 |
第5短篇集『夜来の花』を新潮社より刊行。 |
19 |
大阪毎日新聞社の特派員として中国旅行に出発。発熱のため大阪で静養し、同月28日に上海に向けて出発。 |
4 |
30 |
上海上陸直後に肋膜炎を患い、里見病院に入院。退院後、杭州、蘇州、揚州、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津等を視察。 |
7 |
末 |
朝鮮経由で中国特派旅行から帰国。旅行を期に心身の健康状態が悪化する。 |
10 |
1 |
湯治のため湯河原の中西屋旅館に滞在(~25日頃帰宅) |
1922(大正11)年 |
1 |
1 |
新年号に「薮の中」(『新潮』)、「将軍」(『改造』)、「俊寛」(『中央公論』)、「神神の微笑」(『新小説』)などの力作を発表。 |
28 |
名古屋で行われた文芸講演会(婦人会主催)に小島政二郎、菊池寛らと出席する(~31日帰宅)。 |
3 |
1 |
30歳 |
「トロッコ」(『大観』)を発表。 |
|
同月末、書斎の扁額を「我鬼窟」から「澄江堂」に改める。 |
4 |
1 |
儔、フキとともに京都・奈良方面を旅行(~8日帰宅) |
25 |
2回目の長崎旅行(~5月30日)。永見徳太郎、蒲原春夫、渡辺庫輔らの案内を受ける。 |
5 |
20 |
随筆集『点心』を金星堂より刊行。 |
7 |
27 |
小穴隆一と、志賀直哉を初めて我孫子に訪ねる。 |
8 |
1 |
〈王朝物〉最終作となる「六の宮の姫君」(『表現』)を発表。 |
13 |
短篇選集『沙羅の花』を改造社より刊行。 |
11 |
8 |
次男・多加志誕生(1945=昭和20年ビルマで戦死)。小穴隆一の「隆」の訓を取って命名。 |
|
この時期健康がますます悪化。 |
1923(大正12)年 |
1 |
1 |
菊池寛の創刊した『文芸春秋』の巻頭に「侏儒の言葉」の連載を開始(~1925=大正14年11月)。 |
|
この頃、甥の葛巻義敏(当時13歳)が同居を始める。 |
3 |
1 |
31歳 |
「雛」(『中央公論』)を発表。 |
16 |
湯治のため、湯河原の中西屋旅館に滞在(~4月下旬帰宅)。 |
5 |
1 |
「保吉の手帳から」(『改造』)を発表。 |
18 |
第6短篇集『春服』を春陽堂より刊行。 |
8 |
1 |
山梨県北日摩郡で催された県教育会主催の夏期大学で文芸講師を務め、2日から5日まで講演。同年6月に情死した有島武郎の代理だった。 |
9 |
小穴隆一、渡辺庫輔らと鎌倉に滞在(~25日頃帰宅)。同宿の岡本一平・かの子夫妻を識る。 |
9 |
1 |
関東大震災が起るが、芥川家の被害はわずかであった。 |
|
同月下旬、室生犀星の紹介で、一高生であった堀辰雄を識る。 |
12 |
16 |
京都・大阪方面を旅行。恒藤恭、滝井孝作、志賀直哉、小山内薫、直木三十五らと会う(~30日帰宅)。 |
1924(大正13)年 |
1 |
1 |
「一塊の土」(『新潮』)を発表。 |
4 |
1 |
32歳 |
「少年」(『中央公論』~5月)を発表。 |
5 |
14 |
金沢・京都方面の旅行。金沢では室生犀星を訪ねている(~25日帰宅)。 |
7 |
18 |
第7短篇集『黄雀風』を新潮社より刊行。 |
22 |
初めて軽井沢に滞在し、鶴屋旅館で松村みね子(片山広子)・総子親子を識る(~8月23日帰宅)。 |
|
英語読本『The Modern Series of English Litereature』全7巻を興文社より編集刊行(~翌9月)。 |
9 |
17 |
随筆集『百艸』を新潮社から刊行。 |
10 |
25 |
短篇小説集『報恩記』を而立社より刊行。 |
1925(大正14)年 |
1 |
1 |
「大導寺信軸の半生」(『中央公論』)を発表。 |
4 |
1 |
33歳 |
新潮杜版「現代小説全集」第1巻『芥川龍之介集』収録の「自筆年譜」の中で、養子の事実を初めて公表する。 |
|
同月上旬、田端に転居してきた萩原朔太郎と親交を結ぶ(朔太郎は同年11月に鎌倉に転居)。 |
10 |
病気療養のため、修善寺温泉の新井旅館に滞在(~5月2日帰宅)。 |
5 |
2 |
修善寺からの帰途、大磯の鎌倉小町園に寄り、滞在(~6日帰宅) |
7 |
12 |
三男・也寸志が誕生。恒藤恭の「恭」の訓を取って命名。 |
8 |
20 |
軽井沢の鶴屋旅館に滞在(~9月8日頃)。堀辰雄、室生犀星、萩原朔太郎、片山広子らと遊ぶ。 |
9 |
1 |
「海のほとり」(『中央公論』)を発表。 |
11 |
3 |
『支那游記』を改造社から刊行。 |
8 |
編集を担当した『近代日本文芸読本』全5巻(興文社)が刊行される。印税着服の中傷を受け、大いに悩む。 |
1926(大正15・昭和元)年 |
1 |
1 |
「年末の一日」(『新潮』)を発表。 |
15 |
胃腸のトラブルや不眠症に苦しみ、湯治のため湯河原の中西屋旅館に滞在(~2月19日帰宅)。 |
3 |
5 |
34歳 |
室賀文武より聖書を入手し、熱心に読み始める。 |
4 |
22 |
文と也寸志を連れて鵠沼海岸の東屋旅館に滞在。翌年1月頃まで鵠沼が生活の拠点となる。 |
7 |
末 |
鵠沼の借家(東屋所有の貸別荘)に移り住み、文と〈第二の新婚生活〉を送る。 |
10 |
1 |
「点鬼簿」(『改造』)を発表。執筆には一か月を費やした。 |
12 |
25 |
随筆集『梅・馬・鶯』を新潮社より刊行。 |
31 |
鎌倉の小町園へ静養に出かける(~翌1月2日)。女将の野々口豊子の世話になる。 |
1927(昭和2)年 |
1 |
1 |
「玄鸚山房」(『中央公論』~2月)を発表。 |
4 |
次姉・ヒサの再婚先の西川豊の家が焼ける。 |
6 |
放火の嫌疑をかけられた西川豊が千葉県の土気卜ンネル附近で鉄道自殺。残された多額の借金の後始末に、病身の芥川が奔走することとなる。 |
|
この頃、帝国ホテルを仕事場に「河童」「歯車」等を執筆した。 |
2 |
27 |
改造社の『現代日本文学全集』宣伝講演会で大阪に行く(~3月6日帰宅)。 |
3 |
1 |
35歳 |
「河童」(『改造』)、「蜃気楼」(『婦人公論』)を発表。 |
4 |
1 |
「文芸的な、余りに文芸的な」(『改造』~8月)の連載を始め、谷崎潤一郎と「小説の筋」論争を戦わす。 |
7 |
平松麻素子と帝国ホテルで心中を企てるが、未遂に終る(5月にも平松との心中を企てるが未遂)。 |
|
この頃、アルス『日本児童文庫』と興文社『小学生全集』の間で、企画盗用に関する誹謗中傷合戦が勃発。 双方に関係を持っていた芥川は板挟みになって神経を痛めた。 |
5 |
13 |
改造社『現代日本文学全集』の宣伝で、里見弴と共に北海道、青森、新潟で講演旅行(~26日)。 青森会場には弘前高生の津島修治(太宰治)がいたとされる(ただし、確証はない)。 |
6 |
20 |
第8短篇集『湖南の扇』を文芸春秋新社より刊行。生前最後の創作集となる。 |
7 |
24 |
未明、絶筆「統西方の人」を脱稿し、遺書を認め、ヴェロナールおよびジャール(青酸カリという説もある)の致死量を飲んで服毒自殺。枕元には聖書があった。 早朝、夫人が異常に気づき手当てを施したが、朝7時に絶命。 |
27 |
谷中斎場において葬儀が行なわれた。泉鏡花、菊池寛、小島政二郎、里見弴らが弔辞を読む。弔問客はおよそ1500名。 遺骨は染井の茲眼寺に埋葬される。遺志により、墓石は寸法も含め愛用の座布団が形どられた。墓碑銘は小穴隆一の筆。 |
国際芥川龍之介学会.編
参照:「年譜」(岩波版『芥川龍之介全集』第24巻〈2008・12)所収、宮坂覺編
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