国際芥川龍之介学会ISAS
International Society for Akutagawa [Ryunosuke] Studies

データーベース

【第14回大会報告記―芥川龍之介 訪長崎 100 年 記念】

第1日目(午前の部)  国際芥川龍之介学会 長崎市立図書館 共催記

第Ⅰ部 報告   馮 海鷹
 大会第一部では、韓国慶南大学の林薫植先生、文教大学大学院博士課程の王唯斯さん、筑波大学の石塚修先生の三名の方に順番にご発表いただきました。
 林薫植先生のご発表は芥川の懐疑主義と「西方の人」、「続西方の人」における「無抵抗主義」との関係について、聖書の記述、及び作家のその他の作品から関連づけられる可能性を模索しながら、発表者なりの視点でアプローチしたものでした。
 最終的に両者はどのような関連性を持っているのかをもう少し明瞭に説明するよう、というご意見もありましたが、両者の関連性より、晩年の芥川のイエスキリストの姿への共感に着目したいとのお答えでした。
 王唯斯さんのご発表では、芥川龍之介の中国語訳を巡って、時代性の特徴と翻訳方法の特徴の二つの角度から論じられ、時代的な特徴としては1920年代から 40年代にかけて、支那遊記と芥川の自殺、そして、21世紀以降は中国国内の発展と繁栄、それぞれによって、翻訳が盛んに行われたこと、また、翻訳方法の 特徴としては、1920年代は魯迅などの留学生による起点言語の規範に忠実にする異化が特徴であるのに対し、21世紀以降の翻訳は林少華などの翻訳家によ る原文を楽しんでもらうような、脱翻訳調の翻訳が特徴であると指摘しました。
 時代性の区切り方について、21世紀以降の芥川翻訳ブームを纏まった一つの段階として分類すべきなのか、このブームは現在まで続いており、もっと複雑に区分すべきではないか、というご意見がありました。
 石塚修先生のご発表では、芥川龍之介の家系、及び周囲との付き合いから、彼の文化環境の一面を覗いたご発表でした。芥川の家系については、特に江戸時代の 奥坊主、御数寄屋坊主、御土圭坊主などそれぞれの違い、芥川のご先祖がどのように位置付けられるかについて、分析しました。また、周囲との付き合いとして は、原善一郎との付き合いを論じられました。
 質問者の方々からは江戸時代のお坊主の様々な種類と、複雑な役割分担に驚いた、という声がたくさん寄せられました。
 また、大会1日目ではありますが、開会のご挨拶に長崎市教育長の橋田慶信様よりいただいたお言葉通り、私立図書館の素晴らしさ、長崎の魅力を一番最初に感じた日でもありました。 

第1日目(午後の部) 


第Ⅱ部 報告   金子 佳高
 一日目第Ⅱ部は、科学技術学園高等学校の金子佳高の司会で行われた。第Ⅱ部は松江工業高等専門学校・大西永昭氏の「ユーモアとメタフィクション―芥川龍 之介「葱」再論―」で始まった。スターンや宇野浩二と「葱」を結び付け、「葱」のメタフィクション性にユーモアを見出す趣旨であった。「葱」のユーモア性 について詳細に検討したものではないが、メタフィクションとユーモアの関連を指摘する点など、多様に意義深い発表であった。会場からは、ユーモアという一 般化は妥当か、映画との関連性はどうか、「羅生門」との違いはどうかなどの質問があった。
 次に、元大阪国際大学・長澤彰彦氏が「芥川龍之介は、何故イエス・キリストをジャーナリストとしたか―「支那游記」をコラムとして考察する―」というタ イトルで発表を行った。芥川の考えるジャーナリストとは、「理性をもって根気よく、現実とあるべき姿を語り続ける人」であることを明らかにしたものであ る。氏自身「芥川は専門ではない」と述べていたが、元ジャーナリストの立場からの貴重な発表であった。会場からは、1920年代後半から徐々に理性への不 信が見られることをどう捉えるか、ヴォルテールを最初に読んだ時期に関してなどの質問があった。発表では、ヴォルテール受容の時期とジャーナリスト自認の 時期が重なることに着目していたのである。
 最後に、秦剛氏が「芥川龍之介北京観画考」というタイトルで発表を行った。芥川が中国滞在中に李公麟筆「五馬図巻」を見たこと、陳宝琛宅で「五馬図巻」 を鑑賞したこと、その日にちの推定、芥川を陳宅へ案内した人物の特定などを行った。芥川の「五馬図巻」観画に関する意義深い研究であった。会場からは、発 表に深い感銘を受けたという賛嘆の声とともに、陳が外国人に画を見せることはありえるかなどの質問があった。


第Ⅲ部 報告      落合 修平

 大会一日目第Ⅲ部では、「芥川文学の〈中心〉と〈周縁〉」と題したパネル発表が行われた。発表者は五島慶一氏(熊本県立大学/日本)、井上貴保子氏(熊本大学大学院/日本)、宮﨑由子氏(熊本県立大学大学院/日本)の三名で、司会は発表者の五島氏が兼ねた。
 まず司会兼任の五島氏より、パネル発表の趣旨が説明された。従来の研究が語り落して来た周縁部へと目を向け、内/外の二項対立を問い直すというのがその 大意である。五島氏の発表、「芥川龍之介の故郷(ホーム)&異郷(アウェイ)」では、〈中心〉と〈周縁〉というパネルの主題は〈中央〉と〈地方〉、芥川の 生育の地である東京とそれ以外の地(大阪・長崎・北京)との関係を通して考察された。薄田泣菫宛書簡や「仙人」(1922)等の記述から、芥川の地域認識 においては東京が中心であり、周縁に対しては関心が薄いと指摘した。発表後半、芥川は東京について明治の面影を残す過去の姿を良しとし、長崎について望ま しい古態が息づく周縁、「永遠に守らんとするもの」として見ていたとの指摘は、対立ならざる視座を含めて更なる展開が俟たれよう。
 二人目の井上貴保子氏「芥川龍之介「槍ヶ岳紀行」の文体」は、紀行文「槍ヶ岳紀行」の分析を晩年の「「話」らしい話のない小説」の問題に接続し、小説 (中心)とそれ以外(周縁)という研究上の階層化、内/外の二項対立を問い直した。氏は「槍ヶ岳紀行」他におけるタ形文末の採用を、初期の非タ形文末の 持った臨場感の欠如、物語世界との同化できなさとして論じたが、タ形文末の積極的な効果を見出すことで、更なる展開が期待できるかもしれない。
 三人目の宮﨑由子氏「周縁の父――「玄鶴山房」を中心に」は、家父長制において一家の「中心」となるはずの「父」が、芥川作品では異質で排除される「周 縁」の存在として描かれることが多いとし、周縁としての性質を帯びた玄鶴老人を中心とする「玄鶴山房」の読解によりパネルの課題に応答した。氏は「偸盗」 の猪熊の爺との比較から一篇を検討していたが、会場から、玄鶴が周縁とするなら中心あるいはより周縁のものは何か、との質問もあったように、作品内の構造 を更に分析することも有益であろう。
 以上の発表ののち、パネリスト間で質疑応答が行われた。また会場からは、〈中心〉と〈周縁〉の反転ないし止揚の可能性について「河童」などを例示しつつ問いかけがあった。

第2日目(午前の部)  国際芥川龍之介学会・遠藤周作学会・長崎市立図書館 共催

第Ⅰ部 報告   細川 正義
 この度の国際芥川龍之介学会と遠藤周作学会の共催シンポジュウムでの研究発表は、①Ferreiro Damaso(広島大学)氏の「「神神の微笑」論―〈異教〉の観点から開く新たな読解」②河泰厚(慶一大学校)氏の「芥川龍之介の棄教作品考察」③兼子盾 夫(文芸評論家・神学者)氏の「パレルモ・ナガサキ・エドそしてN.Y.-キアラ神父(ロドリゴ)の光と影」④長濵拓磨(京都外国語大学)氏の「遠藤周作 『沈黙』を中心として芥川文学の系譜を考える」と、両学会よりそれぞれ2名が行い、司会は仁川大学曺紗玉氏と関西学院大学細川正義で担当した。研究発表の 時間は全体で110分の設定であったので、まず初めに4名の研究発表者の紹介を行い、続いて4名に一人20分の持ち時間で連続して研究発表していただき、 残された時間を合同での質疑時間とするという説明を行い早速研究発表に入った。
 最初のFerreiro Damaso氏の発表は、芥川の作品『神神の微笑』が執筆においても出るとしたとされているドイツ詩人ハインリッヒ・ハイネの『流刑の神々』との関係を取 り上げて、芥川の『神神の微笑』における〈異教〉への態度と盲目的信仰への批判について考察した論考である。中で、芥川の作品には古代ギリシャと東洋、こ とに日本の神道の神々との邂逅が描かれていて、西洋と東洋に相互理解を深める試みとしても読めると論じた。
 河氏の発表は、芥川の切支丹物のなかの特に棄教を扱った作品に視点を置いて、かつて笹淵友一が、芥川の切支丹物はキリスト教の本質に触れていないと批判 したことを例示し、それに対して、遠藤周作が芥川の切支丹物を「あの時代にこれだけの問題を提出」した芥川はまさに我々の「大きな先達者」だったと評価し ていることに触れ、芥川の棄教の問題について肯定的視点で論じた。即ち、棄教ものである『尾形了斎覚書』『おぎん』は、決してキリスト教の本質と無縁なと ころで棄教を描いているのではなく、「肉親の愛」のために棄教せざるをえなかった者の「ころび」の苦悩に深く問いかけているのであり、芥川の切支丹物は、 たとえ「宗教という制度」を無化することになっても、我々は登場人物たちに託された信仰への懸命な問いかけにある、芥川の宗教的主題に対する真率な肉声の ひびきに深く耳を傾けるべきであると結論付けた。
 兼子氏の発表は、『沈黙』のロドリゴのモデルキアラ神父を紹介し、キアラ神父が1643年8月に捕らえられて棄教し、切支丹屋敷に1646年に移され、 以後39年間監禁され1685年に84歳で死亡したことと、その間に彼がキリスト教信仰に戻ったかどうかは不明であることを述べ、しかし、その切支丹屋敷 にシドッチ神父が幽閉された間にシドッチの召使長介とハルが受洗しており、これはキアラの信仰者としてしての生き方に影響されたという遠藤周作の文がある ことを紹介した。キアラは故郷シチリアでは、背教後は幕府に対して切支丹探索に協力した人物とされているが、遠藤は、そのキアラが切支丹屋敷の中でキリス トへの愛に到達したという視点で『沈黙』のロドリゴの生涯を通して描いたのだと結論した。
 長濵氏は、『沈黙』を中心にして、芥川文学の系譜、「切支丹」、戦後文学、世界文学の4つの視点から考察した。特に近代文学の重要なジャンルの一つ「切 支丹物」は、芥川文学が大きな意義を示し、「芥川以後」においては、遠藤の、特に『沈黙』の世界に意義が認められるとまとめた。
 以上4氏の研究発表の後質疑に入ったが残された時間の都合で、それぞれの発表者に対して会場から一人の質問もしくは意見を頂いて研究発表は終了した。

第2日目(午後の部)

第Ⅱ部 報告   堀 竜一
 第Ⅱ部開始に先立ち、長崎市長・田上富久様よりご挨拶を頂戴した。その後、国際芥川龍之介学会を代表して、会長・宮坂覺氏(フェリス女学院大学名誉教 授)により、「芥川龍之介のキリシタン文学、そして長崎」と題して基調講演が行われ、引き続き、遠藤周作学会を代表して、副代表・山根道公氏(ノートルダ ム清心女子大学教授)により、「遠藤周作のキリシタン文学、そして長崎—異邦人の苦悩」と題して基調講演が行われた。司会は、前半は堀竜一(新潟大学)、 後半は武田秀美氏(星美学園短期大学)である。
 宮坂氏の基調講演では、芥川龍之介とキリスト教との関わりを概観し、大正8年(1919)と大正11年の、二度に渡る長崎訪問を辿ったうえで、「煙草と 悪魔」と「奉教人の死」の2作品を中心に芥川のキリシタン物の問題性に迫った。さらに、芥川のキリシタン物と遠藤周作のキリシタン物とを対比し、キリスト 教を媒介とした西洋と日本との衝突、芸術と宗教との衝突をめぐる問題性において、芥川文学と遠藤文学との共鳴・コラボレーションがあると指摘した。また、 明治から大正にかけての、背教の文学、無教会主義の問題にも触れ、周縁をさまよいたゆたうこと、多声・多層(ポリフォニー)の結節点(ジャンクション)と してキリシタン物の意味を提示した。
 山根氏の基調講演では、世界文学の観点から、(芥川文学と)遠藤周作文学にとっての長崎という土地・場の意味を提示した。まず、世界史の中の長崎、日本 キリシタン時代という観点を設定し、芥川の「老狂人」「煙草と悪魔」「或阿呆の一生」「歯車」「西方の人・続西方の人」「おぎん」といった作品と、遠藤の 「異邦人の苦悩」を初めとする諸評論、『沈黙』『女の一生』といった作品とのつながりを辿った。そして、人間と人間を越えたものとの、垂直の次元における 相克、魂の探求・存在への渇望というキリシタン文学の根源的問題が、世界文学としての普遍的テーマであるとし、キリシタン殉教の歴史が折り重なる長崎とい う土地・場の地層の中に響く声に耳を傾けることで、芥川も遠藤も、借り物でない本物の「私のクリスト」を発見し、心・魂の故郷の探求に向かったとした。
 宮坂氏・山根氏の基調講演は、ともに、西洋と日本との衝突、キリシタン殉教の記憶・声が、多様・多層的にその地層に刻み込まれた長崎という土地・場の深 い意味・魅力に目を開かせてくれた。それと同時に、その長崎との出会いにより成立した芥川と遠藤のキリシタン物・キリスト教文学が、いかに深く今日の世界 文学の課題と関わるかを考えさせてくれるものであった。

第Ⅲ部 報告   小谷 瑛輔

 2日目の第3部は、「世界文学におけるキリシタン文学の位置づけ――芥川・遠藤、そして長崎」と題して国際シンポジウムが開催された。
 タイトルに含まれるキーワードが重なる作品として、芥川龍之介「神神の微笑」「おぎん」などのキリシタンものと、遠藤周作の「沈黙」「女の一生 第一部 キクの場合」が主要な話題となった。
 これらの作品はこれまでにも、同様に関連させる形で繰り返し論じられてきた作品であり、今回のシンポジウムもやはり、新たな知見を示す研究発表というよりも既知の情報や論点をもとに考え直すといった啓蒙的な側面が強い発表が多かった。
 こうした会を学問的に意義あるものとする上で重要なのは、ディスカッションの時間であろう。既知のことがらの割合の高い報告が多かったとしても、専門を 異にする研究者達が知見を持ち寄れば、その場で刺激的な議論が産まれることも多い。だが、今回のシンポジウムの問題は、そのディスカッションの時間がほと んど確保されていなかったことだ。1人が1件ずつ質問に回答して終わりとなってしまった。
 司会として運営に関わった私としても忸怩たるところだが、これだけの豪華な登壇者を迎えて2時間強の割り当てでは、如何ともしがたかった。苦肉の策で各 発表を20~25分程度に収めるようお願いしたものの、それぞれ全く時間が不足していたようで申し訳ないところであった。芥川学会では、総会や懇親会も含 めた2日間の日程で、会長が挨拶や講演でスピーチする時間が5回も用意されていたが、果たして本当にこれだけの回数、時間が必要であったのか。私は運営委 員という立場上、その必要性について説明を聞く機会は一般の会員よりも多く得られる立場にあったが、それでもいまだに理解できていない。儀礼を重んじ、 ディスカッション時間の確保を軽視するこの学会の慣行が、会長交代を機に改められることを個人的には期待したい。
 さて、このシンポジウムでは聴衆の手元に残る形では資料を配布しない発表が多かったこともあり、正確な紹介は不可能に思われるので、それぞれの発表の論 旨については発表者自身によってこれまでに活字化されてきた、あるいは今後活字化されるであろうものを参照されたい。ただ、実際には意見交換の時間がな かったもののそれぞれの発表には議論されるべき問題提起や論点が含まれていたように思われるため、あくまで私が受け取った限りだが、芥川関係の発表を中心 に記しておきたい。
 松本常彦氏の発表では、日本におけるキリスト教の受容は近世だけでなく明治以降も土着的で複数的と言えるものであったことが論じられ、そのことと芥川の キリシタンものにおける「神」の複数性、すなわち「神神」の問題との関わりが示唆された。私にとってはこれが今回のシンポジウムを通じて最も興味深い指摘 であった。また、沈黙していないものは「神」とは言えないのではないか、という問題提起が最も重要なものとして用意されていたことが懇親会のスピーチで明 かされた。この論点を「沈黙」後半の解釈や評価をめぐる議論に発展させる時間がシンポジウム中に確保できなかったことは惜しいところであった。
 Massimiliano Tomasi氏の発表では、「世界文学」として読まれる際に作家や日本の文脈の情報が無視されることによって生じる、国内の研究文脈とのディスコミュニ ケーション、日本国内での研究への無関心について、改めて注意喚起がなされたことが印象に残った。この学会では「世界文学」という言葉がたびたび持ち出さ れるが、それが国内の多くの研究が大切にしてきたコンテクストを無視するものであることは、研究の場においてはある種の緊張感を産むものでもあるはずだ。 このことは「世界文学」をめぐる議論では最も基本的な論点でもある。しかし不思議にも、この学会では「世界文学」が唱えられる際に、その緊張感がほとんど 伴わず、単に世界中に比較的多くの読者を持つことを誇るという弛緩した論調となる場合が多い。そうした状況のことを改めて思わされた。
 金承哲氏の発表では、遠藤「沈黙」の「世界文学」としての意義が多くの側面から検討されたが、次のVan C. Gessel氏の発表では、2016年のスコセッシ監督の映画「沈黙」も興行的には失敗して本作のテーマが世界的には関心を集められなくなっている状況が 問題とされた。両発表の間にも、やはり一つの論点が結ばれ得るように思われた。
 最後の3分間で、司会の奥野政元氏からまとめとして議論の発展的な方向性を示すコメントがあったが、これもまた、十分な時間があれば発表者またはディスカッサントとして登壇して頂きたかったと感じる密度の高い内容であった。


第3日目 

フィールドワーク報告  フェレイロ、ダマソ

 大変充実した「第14回国際芥川龍之介学会長崎大会」の翌日、いよいよ念願の長崎フィルドワーク。今回の長崎訪問は私にとって初めてだった。スペイン人 としての意見を述べると、長崎は広島の次に原子爆弾が投下された場所としてのイメージが強いが、古くから海外との貿易を行い、キリスト教の聖地としての知 名度も高い。
 一日のフィルドワークの中に長崎市内の大浦天主堂や、崇福寺、長崎歴史文化博物館など、様々な観光スポットを見学できたが、その中で最も印象に残ったも のは午前中に訪れた出津教会郡と遠藤周作文学館だった。世界遺産構成資産内教会でもあり、国指定重要文化財でもある出津教会堂は、潜伏キリシタンが多かっ た出津・黒崎地区に建てられた教会だ。華麗な教会建築を見慣れている私がその飾り気のない建物を外から一瞥して、違和感を覚えた。しかし、靴を脱ぎその中 に入ってみると、不思議な感覚に満たされた。開いたドアやガラス窓から朝の太陽光が教会の中を照らしていた。その光は素朴な主祭壇の影により、一層神秘的 な雰囲気を醸し出していた。教会の管理人さんのお話も伺うことができ、当地の人にとってどれほど貴重な場所であるか認識することができた。
 そこから間も無く歩いて行けば、興味深い発見がもう一つあった。それは旧出津救助院の瓦屋根に見える赤い十字架だった(画像1)。調べた限りではこの赤 い十字架は、1868年6月に来日したマルク・マリー・ド・ロ宣教師の工夫を加えたものであり、瓦屋根だけでなく、外海の出津集落の家屋の壁にも見られ る。マルク・マリー・ド・ロ宣教師が現地の建築に与えた影響は上述の赤い十字架にとどまらず、元々あった石積みの製法に接着剤などの様々な手法を導入し、 より丈夫な家造りに貢献したのだ。その結果、出津集落でしか見られない「ド・ロ壁」という和風・欧風が融合した、ユニークな建築様式が生まれた。
 最後に、遠藤周作文学館にも触れたい。遠藤周作文学館は、遠藤文学の傑作として見なされている『沈黙』の舞台となった場所に建てられており、館内は明暗差 が際立つ瀟洒な建物だ。しかし、建物よりも印象に残ったものは周囲の風景だった。文学館の眼前には、限りなく続く東シナ海、海上に漂っている五島灘、壮麗 にそびえる崖は一幅の絵になる景色であり、遠藤周作が自分の作品の舞台とした理由が想像しやすいものだった。

ご執筆者のみなさまのご協力に感謝申し上げます。
掲載に際しまして、原則そのままですが、明らかな誤字や体裁などを直しております。ご了承ください。

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