国際芥川龍之介学会ISAS
International Society for Akutagawa [Ryunosuke] Studies

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【国際芥川龍之介学会ISAS 2020年3月研究集会 印象記】

日時:2020年3月14日(土)14:00~17:30/会場:専修大学神田キャンパス1号館101教室/天候:雨

研究発表の司会は、前半が小澤純氏、後半が庄司達也氏

国際芥川龍之介学会ISAS  二〇二〇年三月研究集会 印象記

五島 慶一

 プログラム中に予定されていた御一方に辞退があり、当日は二本の発表が行われた。
 車花子氏「芥川龍之介「奇怪な再会」論―ヒロインに託された作家の思い―」で、発表者は本作をまず「南京の基督」と同様に芥川の訪中を見据えての作であるとし、ヒロインの発狂という結末を同作からの延長(南部修太郎からの批判への応答)上に位置づける。その上で、作品の舞台が東京本所、すなわち自らの生育地であることなどを手掛かりに、純粋で無垢そして不幸なヒロインが狂気に陥っていく物語には、芥川の実母に対する思い=理想化された母の面影が描き出されたものであると結論づけた。
 それに対し会場からは、「南京の基督」の金花の物語はそもそも狂気へと結びつくものなのか・「奇怪な再会」の語りが外部視点からの意味付けであることへの留意不足・論述の前提となる資料提示の不備、等の質問・指摘が出た。伝記的事実に依拠した〈作家〉への興味と「奇怪な再会」という作品への興味、その二つが発表者の中で論究手段として無前提に結び附いて仕舞っているところが一番の問題点であったか。加えて、完全原稿として配布された(その点は内容把握の上で便宜であった)資料中には例えば「芥川は戦勝国の国民の一人として」とか、「芥川の近代都市化への懐疑の眼」などと、歴史社会事象を取り込んだ研究領域への「色目」(芥川「色目の弁」から採った)も見られる。多くの事柄に興味を持ち、種々の手法を 試してみることは特に大学院生らにとっては今後の研究の幅を拡げる上で態度としてよいことだが、発表や論文の成果として纏める際には材料や手法の取捨も必要となろう。
 一方の BEAUVIEUX Marie-Noëlle氏「芥川と狂気のエクリチュール・「歯車」に於ける間テクスト性」は、タイトルからも明瞭な通りテクスト論の態度で一貫、質疑での応答立場に至るまでそれが保たれていた。趣旨の第一としては「歯車」とモーパッサン「オルラ」の比較を軸とし、狂気あるいはそれに付随する(主人公にとっての)〈怪異〉の表現がいかに生成するか、更にエクリチュールとしての〈狂気〉が十九世紀末以後の西洋幻想文学とどのような関係性を持ち、延いては芥川同時代の日本「私」小説へといかに接続するかを見通そうとする、緻密さと視野の広さを兼備した優れた論であったと思う。それだけに発表時間を気にされて後半部がやや端折り気味になったのは惜しかった。神が死んでいる世界で人々は生きていくことを余儀なくされるのが近代なら、「悪魔は死んだ!」という声が響く「私」の認識世界が、日本・西洋文学のどのような段階あるいは局面と結びつくのかの論者の考えについて、もっと聴きたかったからだ。
 会場には「歯車」をそれぞれの視点から過去に論じられた方々がいたこともあり、立て続けに手が挙がって活発な発言と応答が繰り広げられた。その中にも指摘があったが、「歯車」には多くの先行テクストが示唆されている中、他の例えばストリンドベリやドストエフスキーに比して言及が手薄であったモーパッサン作を明確な対照によって位置づけたことの意義が何より大きい。執筆後の作家の発狂を背景に「オルラ」がそれと直結的に読まれがちであるという発表者指摘の事態も、正しく「歯車」と芥川の関係に重ねられる。「歯車」に登場するフランス語の会話挿入の唐突さについて稿者は長年疑問を持っていたが、それも今回の「間テキスト性」の観点によって説明がつくかと思われた。
 最後に、本学会初めての試みである研究集会を実施にこぎつけた同運営委員の方々の準備・運営努力に謝意と賛意を表したい。小規模の研究会では通例ながら、学 会―特に大会ではなかなか確保できない長時間に亙る質疑は、若手・大学院生のみならず全ての学会員に益するところ大であり、今回の御発表二本は充分にそれを示してくれた。


印象記:車氏・ボーヴィウ氏の研究発表(研究集会3.14)

今野 哲

 国際芥川龍之介学会ISAS研究集会では、車花子氏とボーヴィウ・マリ=ノエル氏が研究発表を行った。
車氏の発表題目は「芥川龍之介「奇怪な再会」論―ヒロインに託された作家の思い―」である。
 車氏は、「奇怪な再会」に関する新たな作品解釈を試みた。論の主眼は、作中人物お蓮の造型に、芥川の実母(精神に変調を来した後、家内に隔離・保護されて生涯を終えた新原フク)の美的形象化を求める点にある。車氏は、作品の舞台である本所の地理特性を腑分けした上で、「雇婆さん」「幻燈」等の作中形象と芥川の実体験との照合を図る。さらに、他者の視線にさらされつつ静かに暮らすお蓮のあり方に実母との共通性を確認して、お蓮は「狂人である実母のもともと母としてあるべき理想像」であると読む。そして、「純粋で無垢な女が発狂する物語」である「奇怪な再会」は、実母の精神異常を背景とした私小説的作品であると位置づけた。
 「奇怪な再会」については、虚構性が前面に出た作品と見るのが一般的理解である。それだけに、私小説的作品とする車氏の新見解には、作品形象と伝記的事実との照合の精度・妥当性に関して、フロアからはさまざまな質疑がなされた。もっとも、今回の発表が形成過程の論であることは、発表者自身が認めるところである。フロアから提示された、たとえば〈女性形象の再検討〉〈作品末尾の解読〉等の観点を繰り込むことで、論の強度は高まるだろう。その際には〈私小説と定位することは本作の文芸性に寄与するか〉〈伝記的事実を導入する必然性は何か〉といった問いへの回答も用意されるのではないか。またフロアからは、実母への着目は本作に関しては新機軸だが、芥川文学全般においてはクラシカルな観点であるとの指摘もあった。車氏の研究には〈芥川文学と母〉という問題を新たな形で賦活する可能性がある。〈母〉〈狂気〉のモチーフの下に中・後期作品群の系列化を企図する車氏の研究構想の実現を待ちたい。
 ボーヴィウ氏の発表題目は「芥川と狂気のエクリチュール・「歯車」における間テクスト性」である。
 ボーヴィウ氏は、まず芥川のモーパッサン受容を踏まえ、「歯車」とモーパッサン「オルラ」との間テクスト性に基づく検討の妥当性を確認する。そして〈発狂への恐怖〉〈幽霊の形象〉という観点から両テクストの類似要素を抽出し、特に〈鏡〉〈屋敷の火事〉〈絞殺〉の3形象が変異形となって「歯車」に流入する様相を明らかにした。また、「歯車」に導入された幻想文学の要素は表層的なものにとどまると論じる。「歯車」の場合、恐怖の対象物は、夢や漠然とした雰囲気のなかに現出しており、現実世界にリアルに侵入する存在ではない、ということである。19世紀の幻想小説の圏域にある「オルラ」が外的存在の侵襲による自己喪失の恐怖を描いたのに対し、「歯車」で描かれたのは自己分裂による精神崩壊の恐怖であると氏は見る。つまり、狂気をもたらす外的存在(=悪魔)は、超常的状況の現出を(一方で医学等の裏付けも得ながら)正当化するが、「le diable est mort」(悪魔は死んだ)と語られる「歯車」では、狂気は出口なしの状況を形成することになる。「歯車」における悪魔の不在は近代の悲劇である、と発表は結ばれた。
 発表後の議論に関しては、まず「歯車」本文および芥川参照「オル ラ」本文の適否に関する質疑に注目したい。ボーヴィウ氏は、間テクスト性概念を作者サイドに即して操作することで論の安定性を担保していた。私見では、今回の発表には二様の可能性がある。堅固な受容研究として厳密化を図る方向と、多種多様なテクスト群との交響域に進む方向とである。前者であるならば、当然、本文の適否・執筆時期・受容時期(親疎の変遷も含めて)等が問題とされねばならない。後者であるならば、間テクスト性という分析装置の可動範囲をどう定め、どう操作するかに懸ってくる。
 それにしても、テクスト対照の起爆力は大きい。モーパッサンの他テクストと「歯車」の関連・聴覚錯覚等が惹起する連想効果・不可視の世界との対峙の形・同時代の学知環境との関わり・幻想文学と怪異の質・ロシア=フォルマリズムとの共時性……と、討議は広がる。ボーヴィウ氏の発表は、多岐にわたる問題関心を惹起した。
 本学会は、対象によって規定された学会である。したがって(対象への理解は大前提として)方法への許容度・理解度の高さが、学的水準を押し上げる一条件となる。車氏とボーヴィウ氏の方法は対照的ともいえるものであったが、いずれも質疑応答の途絶えない豊かな時間となった。発表者はもとより、運営委員・会場校責任者の見識と尽力によるものと思う。

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